2001/5/5 update
SANTAXで2000年6月1日のテスト版から始めたホームページ。当初はトップページで私を全面的に押し出していたが、現在は「Santax & 長野マラソンクラブ」としてのトツプページになっている。つまり、この約1年間で、クラブ員の中で又新しいクラブ員はインターネットで入会が多かったことから、クラブ内インターネットの普及率が50%(世帯では52%)となり、ネットを通じて1日おきといいほど情報が入るようになった。これを反映してホームページトップが作れるようになった。今後も益々その方向が強まり、長野マラソンクラブページから私のところへ入る形になっていくと思う。そこで、過去の記念としてひとまず、トップページでの「前書き」の変遷をupした次第。
2000/6/1
マラソンをこよなく愛する49歳の「遅れてきたランナー」が開設のホームページ・テスト版。
知っていますか? 99年の「長野マラソン」により、同年の長野県内のフルマラソンの完走者数が、それまでの560〜570名から一挙に1476名になったことを。そしてその県別順位も、これまた32位から、一挙に15位に躍進しました。(数字はランニング文化研究所2000年4月のデータより、ランナーズのホームページRUNNET参照 http://www.runnet.co.jp/ )
内訳は、男子1338名、女子138名です。これまで10月に「大町アルプスマラソン」がありましたが、それ単独ではとても達成できなかった数です。長野マラソンの功績大です。今年「長野マラソン」の参加者は減りましたが、県内参加者はどうだったのでしょうか。主催の新聞社の報道にその辺はありません。
このホームページSANTAXでは、私のランニングライフを大公開しながら、長野市及び北信地域を地盤とする「長野マラソンクラブ」のオフィシャルページも設けて、長野県のフルマラソン完走者数の倍加を目指します。
37歳でフルマラソンに挑み初完走、その達成感・満足感・開放感は、その後の私の人生を決定づけました。走ることが生活の基盤になっています。また走る仲間も広がりました。
添付の花は旭山ふもとのカタクリでした。(私のホームページによく出てきますので、ここでは略)
2000/6/28
<写真説明としてつけたのは>…2000年の苗場山は、まだ雪がたっぷりありそう。長野県側へからの2000メートル高台湿原入り口付近。7月初旬に登る予定なんですが……(97.7.6撮影)
マラソンをこよなく愛する49歳の「遅れてきたランナー」が開設のホームページ・テスト版第2弾。
知っていますか? 99年の「長野マラソン」により、同年の長野県内のフルマラソンの完走者数が、それまでの560〜570名から一挙に1476名になったことを。そしてその県別順位も、これまた32位から、一挙に15位に躍進しました。(数字はランニング文化研究所2000年4月のデータより、ランナーズのホームページRUNNET参照 http://www.runnet.co.jp/ )
内訳は、男子1338名、女子138名です。これまで10月に「大町アルプスマラソン」がありましたが、それ単独ではとても達成できなかった数です。長野マラソンの功績大です。今年「長野マラソン」の参加者は減りましたが、県内参加者はどうだったのでしょうか。主催の新聞社の報道にその辺はありません。
このホームページSANTAXでは、私のランニングライフを大公開しながら、長野市及び北信地域を地盤とする「長野マラソンクラブ」のオフィシャルページも設けて、長野県のフルマラソン完走者数の倍加を目指します。
37歳でフルマラソンに挑み初完走、その達成感・満足感・開放感は、その後の私の人生を決定づけました。走ることが生活の基盤になっています。また走る仲間、走る世界も広がりました。添付の花は白馬のウルップソウ
2000/8/19
かって標高1000メートルの飯綱高原のグランド(冬季スキーの駐車場)から、長野市の最高峰1917メートルの飯綱山頂を目指す登山マラソンがありました。ゴール後は山頂付近の飯綱神社で太陽から採火、ランタンに移した火をランナー集団が持ち下山、それで夕刻からの火祭り・花火に点火するという行事もついていました。
2年続けてあったこの「登山マラソン」。その2年目はアルバイトを頼み、山頂に荷揚げして、みんなで飲んだビールもうまかった。また復活させたいものですね。
添付の花はヤナギラン(写真説明も付けていました)…毎年お盆時期の定点・登山、今年は2000年8月13日でした。山頂の飯綱神社近くのお花畑で、ヤナギランは今年は同日が最高でした。8月27日の乗鞍マウンテンサイクリングでのぼる3千名も、コース沿いの山の斜面で、この花を見ることができます。
2000/10/3
復活の年から3年続けて出かけた夏の斑尾ジャズ・フェスティバル。今年のその日、スキー場側からこの1382メートルの斑尾山に登る子供達の集団があった。私が登ったのは、左膝の故障を抱え、それでも走って、よけいに膝を痛めてしまった97年大町アルプスマラソンの翌週だった。何とか完走しても、その10月は結局66キロしか走れなかった。しかし、尾瀬を歩いたり、この斑尾に来たりと、リハビリは楽しんだ。写真は、スキー場とは別の登山口からのぼり、斑尾山頂の一つ手前の峰あたり。後ろは、今年もトライアスロンの舞台となった、もちろん、野尻湖だ。本年既に長野市から見える志賀高原の横手山などでも初雪があったが、97年10月12日は、見事な紅葉とともに斑尾での初雪があり、秋と冬を一度に体験できた日だった。
2000/11/30
今年の紅葉は里山では1週間くらい遅かった感じだが、11月3日の飯綱に関しては、ほぼ昨年と同じだった。夏が暑すぎたためか、「黄色いトンネル」は感嘆符が出た昨年ほどきれいではなかった。撮影場所は飯綱高原に登っていくあまり車の通らない細い道、標高は800メートルくらいだろうか。同行の梨本氏の撮影による。
11月28日にその高原にそびえる長野市の最高峰・飯綱山もうっすらと初冠雪、長野市内も夕方6時過ぎにはかすかに雪が舞った。29日には志賀高原の山々や菅平・根子岳も白くなって、一気に冬が来た感じだ。12月、市内は雪はないだろうからまだ普通の走りが出来るが、雪が降って路面が凍結しだすと、滑って転ばないように防御的な、ファームを崩した走りとなる。
2001/1/1
寒い国に住んでいて、寒い大会が嫌いな私は、国内南の大会で1年のスタートを切ることにしている。長野から松本に車で行き、そのまま松山に飛んだ2000年2月の愛媛マラソンのゴール前。松山に住む先輩・谷さんが撮影。この大会に限り、ポイントごとの写真がある。バイクで裏道を抜け、通過予定時間に先回りして、全て撮っていただいた。その先輩とを結ぶJAS系の松・松便が3月いっぱいでなくなる。広島便→仙台便→松山&高松便→松山便と推移してきて、とうとうなくなってしまうローカル航空線。不採算路線がどんどんなくなることに割り切れない思いがある。
2001年の私のスタートは1月下旬の日本最南端フル・八重山マラソン。左膝のリハビリにゆっくりと42.195キロを走ってくる。
2001/2/24
次は、現在、元のまま、又は形式を変えてそのまま残っています。
2001年2月(2/24)
3月分は、2度、更新、写真は下記で見てください。本文のみ紹介。
2001年3月(3/4、3/15は2001NMC報告、その4の3月分に使用した写真を収録しています。)
2001/3/4
「第3回長野マラソン」(4月15日)まで2ヵ月を割っている。長野マラソンクラブでは月に一度は走っておこうと、16キロ地点を過ぎたあたりの小布施橋の西堤防からゴールのオリンピックスタジアムのある南長野運動公園まで、サイクリングロードや歩道を走る形で安全を確保しながら、約25qの試走会を1月から実施している。第2回の2月18日は、総勢25名が参加、うち途中切り上げの1名を除き、24名が完走した。もちろん、過去2回の大会の完走経験者が多いが、初挑戦組もいた。今回はネットとクラブ会報のみで、新聞にも出さなかったのに、過去からの試走会を通じて最大の参加者となった。往路・豊野駅から及び帰路・篠ノ井駅までのアクセス路を含めると30キロになり、それを走った方、また駅までの自宅からの距離も足して42.195キロを走った人もいた。
さて、参加者数では昨年から苦戦ぎみの「長野マラソン」、しかし、試走会からは、ひそかに県内参加に限っては増えるのではないか、と期待感をもてた。Santaxの趣旨にあるように、このHPの目標は「長野マラソン」への長野県内参加者増を含めた長野県内のフルマラソン人口の倍化である。県内フル「長野」「大町」の2大会が制限時間5時間のままでも、なんとか3千名にしたいのだ。
この時の使用写真の説明文 2月18日に実施の長野マラソンコース試走会から、五輪大橋の歩道を走る参加者をクラブ事務局・三田が撮影。(ソニーP1)
2001/3/15(3/4のものに追記)
3/4に追加記載の文書
長野マラソンのエントリー人数が明らかになった。「2年ぶりに5千人を超す5120人」「前回よりも948人増え、第1回大会とほぼ同じ」と信濃毎日新聞が13日付で報道。県別内訳は明らかにされてないが、県内参加者増によるものと、期待したい。さあ、いよいよ1ヵ月を割り込み、1日ごとにその日が近づく。
2001/3/20
上の「2001年3月」でリンクしている2001NMC「報告」その4の3月分に使用した写真と文書を収録しています。)
この時の使用写真の説明文長野マラソンのコースの約6割を走った3月18日の試走会。スタートの小布施橋の西堤防での集合写真。クラブ事務局・三田が撮影。
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